「将来良い大学に進学したいが、やる気がでない」への返信

先日、BENBUに入っていない方から相談メールをいただき、
それに返信をさせていただきました。

相談内容は、
 将来良い大学に進学したいと思っているものの「勉強しよう」というやる気がでない
です。

現在満席で、体験もしていただけないため、少しでも参考にしていただけることがあればと
思っての返信でしたが、
文面から読み取れる状況をできる限り詳細に検討し、ごまかしなしのアドバイスを目指したため、
かなり辛口なものになってしまいました。
実際に会って話したわけではありませんので、妥当であったかどうかはわかりません。
今回は、その返信を修正したものをブログ記事とします。
似た内容の相談をされたい方に、参考になればさいわいです。


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「良い大学」があいまいです。
具体的にはどういう大学をイメージされているのでしょう。
「良い」とは何を基準とされているのでしょう。

高校生の中には、部活動のためにだけ、あるいはゲームをするためにだけ、
通学しているような生徒もいて、
ほとんど勉強していないにもかかわらず東大とか京大とか早稲田とか慶応に行くと
周囲に公言している人もいます。
この公言が実現することは、100%ありません。100%です。
部活動をしながら、難関大学に合格する人もいますが、そうした人は、高校入学前から
しっかり勉強し、知識量だけでなく能力自体を高めています。時間管理や自己コントロールにも長けています。
高校でも、時間に制約がある中で、きちんと勉強もして両立していたからこそ、
引退後の短期間の勉強で難関大学に手が(たまたま)届いただけです(余裕で届いたわけでは決してありません)。
勉強せず、落ちこぼれた状態にもかかわらず、難関大学に合格できると妄想している人は、
現実が見えていません。必要な時間や努力の量、目標と現在地のギャップの大きさ・次元の違いがまったくわかっていません。
部活と両立させながら難関大学に合格した人がいるという例外を、都合の良い部分だけ自分にあてはめて
「だからだいじょうぶ」「自分もそうなるはず」と勝手に思い込んでいるだけです。
例外はあくまで例外で、大多数の「例内」が存在します。
ここでいう「例内」とは、部活と両立できずに、あるいはゲーム中毒で、成績が低迷する大多数の人たちのことです。
自分は「例内」ではなくて「例外」になるんだと、何の根拠もなく信じているのは、幼すぎます。
例外には例外となる理由・条件があるので、それを満たすことが前提です。

開成高校や桜蔭学園など東大合格者を多数輩出する高校の生徒たちの多くは、
鉄緑会で毎回超大量の課題をこなすなどして勉強をしています。
高2の段階ですでに合格レベルを超えた状態で、高3の冬に受験するのです。
もともとの能力や勉強量が違う上に、中高からの勉強量も圧倒的に違う人たちです。
そうした高校生たちに混ざって、高3の半ばで授業がようやく一通り終わるような高校の生徒が、
たいした勉強もせずに合格できるはずがありません。
竹園高校や土浦一高に合格した時点ですでに大きな差をあけられているだけでなく、
高校課程の内容を高3の秋以降にようやく習い終えるというハンデを背負っての戦いであることを
意識しておかなければなりません。県立高校合格程度で全能感に浸っていてはいけないのです。
ましてや、竹園高校等に届かなかった人は、大学受験を安易に考え難関大学を志望することは
よほどの覚悟が必要だと知っておくべきでしょう。
医学部を目指す場合も同様です。
使える時間をすべて勉強に注ぎ込む3年間を送って、やっと可能性が見えてくるくらいです。
東大に現浪あわせて20名合格したとしても、東大の定員は3000名を超えます。
わずか0.6%ほどに過ぎず、
東大入学者から見ればきわめて例外的な存在で、「よく合格したね」という存在に過ぎません。
現役で10名合格したとすると、高校の1学年の中の3%です。
その程度の高校であって、すごい高校などではありません。
(開成高校であれば、毎年、学年の30%超が東大に入っています。)
「この高校に入ったから自分は偉い。自分は難関大学に合格できる。」などと慢心することなく、
客観的な立ち位置を把握して、精一杯の努力を積み重ねていきましょう。
得たいものを手にするには、対価が必要です。
志望校の合格には、「そのレベルに見合う努力を積み重ねた時間」の対価が必要です。
その時間の中で、単に知識を増やすだけではなく、
思考力や忍耐力などを伸ばしていくことが必要なのです。脳を自分で育てていかなければならないのです。


また、「良い大学に進学したい」とのことですが、
「良い大学」に進学したい理由となっている、進学して得られると想定されている利益について、
誤解があるように感じられます。妄想に基づいてあこがれても、あとで現実とのギャップに
ショックを受けるだけです。

「良い大学」に進学して周囲から賞賛され優越感に浸ることができるという利益は、
一時的には得られるでしょう(合格すればですが)。
しかし、同級生はその大学に合格した人ばかりです。
大学の中では、すごい人でも賢い人でもなく、ふつうの人になってしまいます。
大学での授業は高校よりはるかにレベルが高く、
しかも学生が理解しているかどうかも気にしないことが多いです。
実際の学問の最先端につなげるために、とても深くて大きなギャップを短期間に埋める必要があり、
もたもたしている学生のフォローなどしていられないからです。
自分の力で追いついてくることができる学生しか、将来研究職につくことはできないでしょう。
それができない学生は、大学にとっては不要なお荷物となります。
大学の教科書や参考書は、きわめて不親切です。化学や生物の教科書は英語版であることが普通です。
大学でも当然に定期テストがあり、単位を取りこぼすと進級や卒業に影響します。
入りたい研究室にも入れなくなります。
就職にも影響するでしょう。大学名だけで有名企業に入れるほど甘くはありません。
授業についていくことが難しくなってしまうと、周囲からの賞賛は逆に重荷に感じられるでしょう。
せっかく合格したのに大学に通えなくなってしまう学生が毎年一定数いますが、そうした人たちだと思います。

大学生活を楽しんでいい思い出をたくさん作ることができるという利益は、
入学後の半年間ほどを除いては、
授業についていくことができ、単位をきちんと取得できている人にのみ与えられます。
授業がわからなくなり、何のために大学に入ったのかわからなくなってくると、
大学生活を楽しむ心の余裕がなくなって、病んでいきます。
高校よりもはるかに難しくなる内容をしっかり身につけていかなければ、
楽しい大学生活は架空のものとなってしまうのです。

つまり、
「良い大学に進学」できたとしても、勉強をし続けることになるのです。
勉強から解放されたり卒業できたりするわけではありません。
高校の段階で勉強することがイヤになっているのであれば、
「良い大学に進学」することはきわめて困難ですが、
仮に進学できたとしても、そこまでです。そのあとはありません。
「良い大学に進学」し、そのあとも楽しむためには、
勉強することを好きになることが必須条件なのです。

「勉強することがつらい」というのは、実は刷り込みであり洗脳です。
つらく感じるのは、無茶な勉強方法をとったせいです。
あるいは、勉強することを無理強いされたせいです。
勉強すること自体は、人間として本来楽しいものです。
テスト前は徹夜で頑張るぞ!的な、バカのお手本とも言うべき一夜漬けは勉強ではありません。
勉強をほとんどしてこなかった人が勉強をした気分になるだけの愚行にすぎません。
定期テストで仮に、ましな点数が取れたとしても、それは実力が上がったのではなく、
勉強してこなかったことをごまかすことに、少しだけ成功したに過ぎません。
志望校の合格からは、ますます遠ざかります。睡眠不足で当日や翌日の効率が落ち時間を失います。
高校教師からの、無茶な量の課題の強要も、勉強ではありません。ただのパワハラです。
県立高校の教師が、「頑張っている人は睡眠時間3時間でやっている」などと生徒に話して
無茶な生活に向かわせようとしていますが、この教師は正真正銘のバカです。
自分でやってみろ、と言いたいくらいです。教育者として無能であることを自覚してほしいものです。
睡眠不足では記憶が定着しませんし、脳がうまく動きません。
精神病にとてもなりやすくなります。すぐに鬱の初期状態になってしまうでしょう。
こんなパワハラで無理な生活をさせられれば、誰だってイヤになります。つらくなります。
しかしそれは、勉強ではありません。

勉強することで成績があがり将来の選択肢が増えていくことは喜びとなりますが、
勉強すること自体も、実は喜びであり楽しいことです。
大学では勉強が大変になりはしますが、
勉強・研究が生活と一体化すると、勉強すらも遊びのように感じられるようになります。
好奇心が次々に湧いてきますし、実験においては、こうすればどうなるのだろうと試したくなってきます。
吸収した知識が横につながって鳥肌が立つほどの感動を味わうこともあります。
新たな知識を得て自分の世界が広がることは、人間にとって本能的に喜びと感じられるものなのです。

ハードに勉強しつつ、勉強以外のことも含めて、全力を出して過ごす日々は、
充実感にあふれ、楽しくなります。やりたいこと、やるべきことがあふれてきますが、
自由度が高く制約の少ない時間の中で、時間管理が上達し、ますます多くのことをこなせるように
なっていきます。
自分の能力が拡張し高まっていく中で、自分が成長している実感も大きな喜びとなります。
そして、同じような生き方をする仲間ができ、努力する人たちの交流の輪が広がっていきます。
頑張る人に待っているのは、こうした世界です。
朝からゲームをして、動画を見ながら夜更かしする生活とは、まったく違う世界です。
勉強するかしないかで、これほど大きく二極化してしまいます。



まずは、「良い大学」に抱(いだ)かれている幻想を捨てましょう。

そして、勉強することを好きになりましょう。
いえ、勉強することが好きだった、楽しいものだったと思い出しましょう。
幼少期に遡るまでの間に、必ずそういう時期が見つかります。

妄想の中の「良い大学」は、実は存在しません。
高校時代よりハードな勉強生活が待ち受けているのが現実です。

大学時代に遊んで過ごした、と言っている人がいるとすれば、
「良い大学」ではない大学に入ったか、
「良い大学」に入り勉強をしながら、時間をうまく使って楽しんだ人でしょう。

法学部や経済学部で、資格を取るのでもなくただ卒業することだけが目的であれば、
卒業に必要な単位は比較的とりやすいので、楽ではあります。
そういう人たちは、たしかに合コンの日々を過ごして遊んで暮らせていたかも知れません。
大学3年からは、インターンシップの選考のため、エントリーシートを作成することになりますが、
遊んで暮らしていると自己PRに何も書けないことになってしまいます。
そうなると、もう、遊びまわる精神的な余裕はなくなります。
選考資料に大学での成績の添付が求められることが多いですが、後悔しても手遅れです。

高校で遊んで過ごすと大学入学が困難となり、
大学で遊んで過ごすと就職が困難となります。
理系で、成果を出している研究室に入ることができれば、多くの場合、就活は不要となります。
教授と企業との間でほぼ決まってしまうので、就活の経験も、エントリーシートの記入もないままに
社会人になることができます。頑張った分の当然のご褒美でしょう。
遊んではいけないということではありません。
遊んでもいいので、勉強しなければならないということです。
形だけの勉強をするのではなく、本気で勉強して、能力自体を伸ばすことが必要です。
いやいや勉強をしても能力は伸びないので、勉強することを好きになることが不可欠です。



「良い大学」に入るためには、かなりの努力を継続することが必要で、
入ったあとは、さらに努力を重ねることが求められます。
そうして磨いた能力が社会に求められ、厚遇を受ける根拠となります。
この「努力」は、実はつらいものでも苦しいものでもありません。
本人にとっては充実した時間を生んでくれる行為であり、目標に近づくことが生きがいにもなります。
スポーツの世界では、あたりまえの話です。
マラソン選手としてオリンピックに出ていた頃の高橋尚子さんは、
朝食前に自主的に数十キロメートルのランニングをこなすことが日課になっていました。
プロボクサーで世界の3階級制覇を成し遂げ四団体統一王者を狙っている井上尚弥さんは、
練習量が非常に多いことで有名です。
試合で勝つために当然のことではありますが、
本人はいやいややっているわけではなく、やりたくてやっているのです。
勉強も同じです。
いやいや勉強をしていたり、ため息をつきながら勉強していたりするようなら、三流止まりです。
難関大学にはまったく及びません。

「良い大学」に入れば、自堕落な生活、楽な生活ができる、というのは誤解です。

「良い大学」に入る前から、勉強を継続できる自分に変わる必要があります。
自堕落な生活、楽な生活をしたいと思うこと自体が「良い大学」を遠ざけています。
その思いから変えていくことが必要です。
変えるのがいやなのであれば、「良い大学」をあきらめましょう。
自分の人生にとっての優先度、重要度で判断すればいいだけの話です。
「良い大学」がすべてではありません。
「良い大学」に入れば人生が成功だ、などということもありません。
「良い大学」に入るために、塾に入られたとしても、自分で努力をしない限り、実力は身につきません。
授業を受けているだけで力がつくことはないのです。

塾の中には、授業を受ければ有名大学に合格するかのように錯覚をさせて勧誘している所もありますが、
よく読めばそうは書いていません。もし書いていれば詐欺です。
生徒の成績が上がったという宣伝でも、それが自分にあてはまるとは書いていません。錯覚させているだけです。
成績が上がった生徒が、次のテストで成績が下がっても、広告には載せません。
成績が上がったといっても、出る問題を事前に解かせたり情報を与えたりしているだけかも知れません。
楽に成績を上げたいと考える人が、ひっかかるだけですが、
ひっかからないと気づけない人は、ひっかかることも学習行動として必要でしょう。自己責任です。

実力をつけたいなら、受け身の授業を求めるのではなく、自分で勉強をすることです。
水泳をうまくなりたいなら、自分で泳ぐしかありません。
わたしは高校時代に水泳部で、高2の夏の前半まで、ブレスト(平泳ぎ)しても全然前に進まず、
熱心に教えてくれた先輩から「おまえにはブレストは無理だからクロール専門でいけ」と言われました。
しかしそれでもブレストをちょこちょこ練習していたあるとき、突然、足・脚が水をつかむ感覚を体得し、
いきなり速く泳げるようになって、結局はブレストの選手になりました。
勉強も、自分がわかるためには、自分が体得する経験を積み重ねることが必要です。
いくら説明を聞いても、自分のものにはならないのです。解き方を覚え込んでも実力はついていないのです。

入試の試験会場には自分一人で臨みます。
頼りになるのは、それまでに積み上げてきた自分の努力とそれにより体得したもののみです。
自分と一体化したもの以外に頼れるものは何もありません。
頑張るしかありません。



「勉強しよう」というやる気がでないのは、
生活が整っていないせいかも知れません。
その場合には、ゲームを削除し、あるいは捨て、夜はスマホは親に預けるなどし、
食事をきちんと摂って睡眠時間をしっかり確保して、
できる限り毎日同じように規則正しく過ごすようにしましょう。

そのうえで、
理解があやふやな所まで遡って、学び直しましょう。
必要であれば、中学校の参考書・問題集を解けばいいです。
勉強をサボったり、わからなくなったりした所まで戻ってやり直すのが、
最短時間で実力を上げる秘訣です。



やる気のでない原因が、
「そもそも勉強をすること自体が嫌いだ」ということであれば、
大学に入る意味がありません。
高卒または、
「良い大学」ではなく学力に合った大学を経由して、
社会に出ればよいと思います。
嫌いなのに無理に勉強をしても、伸びません。時間のムダです。
ただし、
勉強をすることが本当に嫌いなのかは、きちんと分析しておくことが必要です。
幼児の頃は、生活すべてが勉強で、それが嫌いだった人はいません。
そのあと、成長の過程で、勉強が嫌いだとおもうきっかけがあったはずです。
その分析は、一人では難しい場合もありますので、
カウンセリング等の、第三者の手助けを求める方法をとられることをおすすめします。
きっかけがもし見つかれば、心を癒やして、人生をやり直すつもりで
勉強を始められるといいとおもいます。



今は勉強する意欲が出ないでしょう。
意欲が出れば勉強する、というのは、実は甘えであり、勉強を始めない言い訳です。
感情を盛り上げて勉強のやる気を出して勉強をし始めたとしても、
感情はすぐに変化し冷めます。中学受験をする小学生が合宿の最後に合格宣言を
することがよくありますが、あれは母親向けの宣伝にすぎません。
あんなものは、何のプラスにもなりません。ただのお遊戯です。
感情を上下させることで、精神面で疲れます。勉強にはマイナスです。
では、どうすればいいのか。
意欲が出ないままで、モチベがないままで、とにかく勉強を始めればいいのです。
勉強を始めれば、だんだんと意欲が出てきます。
これがスタートです。
意欲が出ないとどうしても始められないのであれば、
幼い頃にがまんをする躾がなされなかった可能性があります。
甘やかされすぎたために、やると決めたことに着手できなくなっているのかも知れません。
そのままでは、社会の中で生き残れません。
自分自身のために、自分で自分をしつけましょう。



冒頭で、「良い大学」があいまいだと指摘しました。
「良い」というのは、世間的な評価基準だと感じます。
大学は自分を育てるために通う所なので、
自分にとって「良い」大学を選ぶことが必要です。

仮に入学できても、授業についていくことができない大学は
自分にとって「良い」大学ではありません。
世間的に評価の高い大学であっても、そこの落ちこぼれでは、
就職においても学業においても、何のメリットも得られません。
メリットどころか苦痛の種でしかなくなります。

生活を整え、夜更かしやゲームから離れ、できれば部活動もやめ、
良い体調で豊富に準備した時間を使って、
とにかく勉強を始めましょう。意欲の有無に関係なく始めるのです。
そして勉強を継続できる自分に変えていきましょう。

これまでの生活、これまでの自分では、勉強はできませんでした。
そうであれば、
これまでの生活、これまでの自分のままで、勉強ができるようになろうとすることは
まちがっています。
自分を変えるつもりで、勉強に着手してください。

変わることは、こわいことです。
人間は、未知の幸福より、既知の不幸を選ぶ傾向があります。
たとえ不幸でも、どんな状態なのかがわかっている分、安心できるからです。
幸福になるとわかっていても、どんな状態なのか経験したことがないために、そのための行動を
とりづらいのが人間です。
人間の心理の、やっかいなところですが、ここを乗り越えなければ、何も変わりません。

できれば、乗り越える負担を減らしたいですね。
だから、楽な方法はないかと特効薬を求め、釣り広告にひっかかる人が多いのです。
しかし、特効薬自体、実在しません。
やる気スイッチがあれば楽ですが、実はそれも存在しません。

「変わるための行動」に着手するハードルが高いのです。
正確に言えば、「高く見える」のです。
どうせやるんだったら、8時間はやらなきゃな、いや10時間かな、とか、
あの問題集を全部完璧にしないといけないよな、とか、余計なことまで考えてしまって、
ますます着手できなくなっていきます。ハードルが垂直にそそり立つ壁のようになってきます。
やろうかな、どうしようかな、と迷っていたり悩んでいたりするから、ますます高くなるのであって、
実際の壁は、実はそんなに高くありません。
高いと思い込もう、そうすれば変わらなくて済むし、その方が安心だ、と
無意識の自分が考えて、それに操られているだけなのです。

どうすればいいか。
たった5分間だけ、まずやってみることです。
たったこれだけで、壁を乗り越えることができます。
悩みそうになったら、すぐに思考を止め、強引にやり始めればいいのです。
「悩む前にやれ!」ですね。悩んだら負けです。
「5分だけやってもそんなちょっとじゃ意味ないし。」という声が聞こえたら、
それは変わりたくない自分の本心の声です。無視しましょう。

まず着手することで、脳の側坐核が作業興奮して、意欲が初めて生まれます。
そうなると、やり始めたことをやめたくなくなってきます。
だから、まずやってしまえばいいのです。

変わるつもりであれば、全力で応援します。
変わることができない理由を並べるのであれば、縁がなかったということなので、
今後連絡を取ることはありません。