どうして、そんなに働くのか、というご質問に対するお答え
心にもやがかかったときや、なんだかやる気がでないときに、
よく見ている動画を紹介します。
以前のブログ記事で紹介したことのある、大愚元勝和尚の動画なんですが、
ただただ、ひたすらに、和尚が掃除をしているだけ、の動画です。
和尚が、ただひたすらに、お寺の中を掃除しています。
室内の掃除が終わると、続いて外の掃除バージョンになります。
動画の長さは、室内が2分14秒、外が2分5秒です。
ひたすら掃除をすると、心まで浄化される気がします。
全力で掃除をすることで、詰まっていたものが取れて、
エネルギーが循環し始める気がします。
掃除が好きです。食器洗いも大好きです。
また、同じ和尚の、今度は説教になりますが、
「今ここ」というお話も、たまに聞き直しています。
29:30あたりからの話を、一部書き出します。
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何ができる、何がやりたい、じゃなく、
「今、ここ」。
より良い自分の未来を見据えたときに、
それがどのような未来であるかわからないからこそ、
今ここで自分が関われることを一生懸命やろう。
もし明日があるなら、その明日は今日よりも良きものになっていてほしい。
だから、「今ここ」。
自分が手につかめるものがあったなら、
その手につかめるものを自分なりに一生懸命やる。
それが将来どんな意味をもたらすか、そんなことはわからない。
けれど、いつか、自分がつかんだこの「点」と、「点」と、「点」が、線になり、
円になっていく。形になっていく。
そのことを信じて、有り余る時間をつなぎ合わせて生きていく。
どうしようも生き甲斐が感じられない、
将来どうしたらいいかわからない、といったときに、
生き甲斐というものが感じられないからといって、
何もしないのではなく、
より良き未来を見据えたときに、今ここでわたしができることは何なのか、
それが楽しかろうが楽しくなかろうが、
苦しかろうが苦しくなかろうが、
とにかくここでポジションを取っておかなければ、
何もなくなってしまう。
それが楽しいとか楽しくないとか、おもしろいとかおもしろくないとかじゃ
ないんです。
自分に今与えられている環境の中で、自分に手が届く範囲内のことで、
自分ができることを全力でやる。
それしか、その時期を乗りこえる方法はないわけです。
だって未来が見えないんですから。
今ここを懸命に生きていることでしか、より良き未来は出てきません。
これは間違いのない、検証済みの事実であるということができます。
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他人より多く働こうとはおもっていません。
そんなことに価値は感じていません。
ただ、自分が今できることに全力を注ぎ込む、それをただ実践しているだけです。
そうすれば、体力や気力や運や必要な情報や信頼や愛情などなどが、
集まってきて支えてくれています。
他人より多く稼ごうともおもっていません。
稼ぐつもりなら、自分はできるだけ表に出ず裏方に徹し、自ら動くことはしません。
稼ぐつもりなら、受講料をもっと高額に設定しています。
他塾に比べ質・時間に対し圧倒的に安く、
そのため最初の1年間は1、2年生がたくさん来てくれていたにもかかわらず無報酬でした。
自分にできることを尽くすことで、相手がうれしくなり、
それによって自分もうれしくなる、
その循環を日々繰り返しているだけです。
勉強することは楽しいことです。
自分の成長を感じるのはうれしいことです。
生物が生まれながらにもっている喜びです。
もっともっと成長しようというのは、生物が生まれながらにもっている本能です。
本来、そうであるはずなのですが、
育っていく過程で、否定的なことを言われ続けたり、認めてもらえなかったり、
挫折したときにフォローを受けられなかったりすると、
成長することを避けるような行動を取るようになります。
成長することを本当は望んでいるにもかかわらず、
どうせ成長できないし、自分はやってもできないし、といった
ネガティブな思い込みを抱き、
そうしたくちぐせを日々繰り返し
自己暗示によって思い込みをさらに強固なものにし、
どんどん深みにはまっていきます。
強く望みながら強くあきらめようとするという、
複雑な屈折のしかたになっていきます。
否定的な態度でいることに安心感を覚え、
そこから出ることができなくなっていきます。
望みが大きく強くなっていくために、
少々の望みでは満足できなくなっていき、
だからこそ余計に実現が難しくなって達成不能に近づくことに安心感を覚え、
ますますあきらめようと思い込みます。
一方で、望みが叶わないことにストレスを感じてもいます。
自己矛盾と葛藤で苦しいとおもいます。
心理面でこじれてしまった人であっても、
今、ここに、全力を投入すれば、解決します。
勉強に対して全力になれなくても、
掃除でもなんでもいいのです。
自分が今できることに、実際に全力を出し切ればいいのです。
何をやっても、その効果は自分のすべてに及びます。
全力を投入すれば、結果はどうでもいいと思えるようになってきます。
結果にこだわらず、全力を出せたことに満足できるようになってきます。
そこまで、そうなるまで、全力でやり切ることが必要です。
全力でやって失敗したら・・・
などというおそれを抱くのは、全力を出していない証拠です。
何もしないから、不安ばかりが大きくなり、自己矛盾が拡大していくのです。
おそれや心配は、全力を出したくない、現状にとどまりたい、という、
現状維持をするための言い訳にすぎません。
全力を出すことなく年をとっていっても後悔しないなら、それでいいでしょう。
わたしであれば、そんな後悔をするくらいなら、全力でやります。
全力を出したかどうか、やり切ったかどうかが、満足するための重要なポイントで、
全力を出すチャンスを失ってしまうことが問題なのです。
全力を出した上での失敗ならば、満足できます。
全力を出さなかったならば、生きている実感がないまま終わっていきます。
かつて、会社員だった時期に、尊敬していた取締役に独立しないのかと尋ねたところ、
「もう、この年になると、守りに入らざるを得ないんだよ」と言われ、
幻滅や怒りや軽蔑を通り越して、ただただ哀しみに浸っていたことがあります。
そんな生き方をしていて楽しいのか、その頃からずっと考え続けています。
生きている価値、生きている喜びは、自分ができることに全力を出すこと、
夢中になること、熱中・没頭することの中にあると信じています。
どれだけ財産をもっても、何にも興味が湧かない、集中できない状態ではつまらないです。
何も満足できないです。
せいぜい、他人との比較で優越感に浸ることができるくらいです。
しかし、すぐに、自分を上回る人たちが目に入り、嫉妬や劣等感にまみれます。
財産を築いて安心できるとおもっていたら、減っていくこと、なくなっていくことへの不安が
絶え間なく襲ってきます。
満足するためには、安心するためには、
財産を築くことではなく、
いつでも財産を築くことができる自分になることを目指すべきです。
何かに依拠しないと生きられない自分ではなく、
どういう時代になっても自分で生きていける人になることが、
今の時代から求められています。
それに気づかず、昔ながらの生き方をしようとしても、
幻影を追いかけるようなものです。
とっくに、世界も時代も変わってしまっています。
勉強することは楽しいことです。
生物として、楽しいはずのことです。
楽しめないのは、勉強のせいではなく、他に原因があります。
わたしは、生徒が本来もっているはずの、
自己の成長に対する喜び、成長への希求を信じて、
日々生徒と向き合い続けます。
わたし自身も、日々勉強を続けます。
仕事としてではなく、楽しみとして、
そして、与えられた環境の中で自分に手が届く、自分が全力でできる行為の一つとして、
全力で、やり切ることを続けていきます。