なぜ、ゲーム中毒に?/2

なぜ、ゲーム中毒に?/1 では、原因面に焦点をあてて、主に高一ギャップでゲーム中毒になってしまうケースを考えた。
今回は、ゲーム中毒になっていく心理に焦点をあてて考えてみたい。

起きている間は、必ず何かをしている。
眠っている間は眠るという行為をしているので、結局は24時間中、意識的であれ、無意識的であれ、常に何かをしていることになる。

何かをするとき、そこにはその行為の選択があり、実行しようという意志がある。
たとえ締め切りに追われて始めた行為であっても、その行為を始めることは自分で選び決めている。

出発時間だから家を出るとか、明日が締め切りだから今から課題に取り組むとか、しなければならないから選択している行為は結構たくさんある。それだけで、一日のかなりの部分を占めそうだ。

それ以外の行為は、「しなければならないから」という理由以外の理由で、選択している。その選択の基準は、おそらく、そのときの感情に沿うこと、感情を満たす行為であること、だろう。
受験生の場合、ここが「できる人」「できない人」の分岐点になる。
そしてゲームが入り込み中毒にまで至らせる入り口になる。

たとえば、
学校や部活から帰ってきて、夕食まで少し時間があるとき。
とりあえず、机にカバンを置いた。
そこから何をするか。
その選択を支配しているのが、そのときの感情になる。
何かしたいことがあれば、それをするのが感情を満たすのにちょうどいい行為になる。
読みかけで続きの展開が知りたくてうずうずする本があれば、きっと読もうとするはず。
特に何もしたいことがない場合、ちょっと時間があるときには、できるだけハードルが低くて楽しく感じる行為で感情を満たそうとする。

ゲームは、ここに入り込む。
ゲーム自体がしたいことになっていれば、当然にゲームをやりだしてしまう。
ゲーム自体がしたいことというほどではなかったとしても、ほかに特に何もしたいことがない場合、ゲームを始めてしまうことが多い。なぜなら、ゲーム自体は受け身の行為でハードルが低く、やっている間は楽しく感じられるように作り込まれているからだ。それでその場の感情が満たされてしまい、気づくと時間が失われてしまっている。

ゲームするために生きているなら、それでよし。
学校のことや将来のことも準備ができているなら、残り時間をどう使おうが、構わない。
でも、そうでなければ、ゲームに費やした時間は何も生まないだけでなく、
ほかにできたはずの行為をすべて捨て、あったはずの機会をすべて捨て、
将来の可能性を自ら狭めて、
それらと引き換えに、ゲームを楽しんでいた、ということになる。
それほどに楽しいゲームがあるなら、そのために生きているのも、悪くはない。
それほどまで楽しいというわけではなくても、わずかな余り時間だけで済ませることができるなら、それも悪くはない。

問題になるのは、最初は軽い気持ちで、そのときの感情を満たすために始めたゲームが、「したいこと」になり、「すごくしたいこと」になり、「なにがあってもしたいこと」「ずっとしていたいこと」になったとき、ゲームの奴隷と化したときだ。
ゲームは飽きられてしまうと制作会社は儲からない。だから少しでも入り口に入った人をどんどん引き込む仕掛けを、心理学を駆使してちりばめている。「したいこと」から「ずっとしていたいこと」になるのに時間はかからない。そうなるように作り込まれているからだ。
「ずっとしていたい」状態になってしまうと、ドラッグなどの中毒状態と変わらなくなる。一応、生きているから、ゲームを楽しめるのだけれど、現実世界から離れ、現実世界を無視するようになってしまえば、生きていないのと同じになる。

そうであれば、一般人(制作会社の人以外の人)は予防策を持っていなければ危険だ。
WHOがゲーム障害を疾病リストに加えたように、世界中でゲームに溺れて現実の生活が送れなくなってしまった人が増えている。予防策なしにゲームに対抗できるなんて思わない方がいいし、ゲームを買い与えたりしない方がいい。

高校生は、予防策として、どういうことができるだろう。
親による強制力・矯正力は別として、自分でできる予防策を考えてみる。

最初は好奇心や友人の誘いであることが多い。
だから絶対にゲームなんてしないぞ、というわけには、いかないと思う。
そうだとしたら、できるだけ「したいこと」にならないように、なったとしても優先順位は低いままにとどめるようにしなければならない。「すごくしたいこと」になってしまうと、すでに中毒になってしまっているので、離れることが苦しく、困難になる。

どうすれば、ゲームが「したいこと」にならずに済むか。なっても優先順位が低いままにとどめられるか。
それは、ほかにもっと強い「したいこと」を持つしかない。
なぜなら、人間は24時間、何かの行為をしており、「しなければならないこと」以外の行為は、感情を満たすものを優先的に選択するからだ。

高校生の場合、本来は、勉強が「しなければならないこと」であり、それだけで時間はすべて埋め尽くされるはずなのだが、意識(アタマ)で考える「しなければならないこと」と、無意識(心)で考える「しなければならないこと」にズレがあることが、実は多い。
だから、勉強を「しなければならないこと」と思っておらず、空いた時間は感情を埋めやすい行為で潰してしまう高校生が多くなる。

そうとすれば、勉強が「しなければならないこと」なんだと、自分で認識できるように、心を整理し将来を考える時間を持つことが必要になる。
しかし、これは、大人でさえ難しいことだ。簡単にできるものではない。高校生が、親や教師や塾の講師に説教されても、本当にそう思えるようになるものではない。

では、どうすればいいか。
勉強をしている人と一緒に過ごすことである。
ゲームをする人と一緒にいるとゲーム中毒になっていく。
それに対抗するために、勉強をする人と一緒にいて、極端に言えば、勉強中毒になってしまえばいいのである。
県立高校であっても、ゲーム最優先の生徒は少なくない。そういう人たちと一緒にいれば自然にゲームにはまりこむ。ネットでつながったままの対戦・連携ゲームまで手を出してしまうと、後戻りはかなり厳しくなってしまう。
それに対抗するには、そういう人たちと少し距離を置き、勉強をしている人とつながることである。
そうすれば、勉強をどうやっていくのかに興味・関心が湧くようになり、勉強自体が「したいこと」に次第になっていく。自分だけではできないことだが、すでにできている人とつながることで、自然とできるようになっていくのである。価値観も次第に変わり、将来のことも考えるようになってくる。すぐにやってくる大学受験についてもまともに考えるようになってくる。ゲームにはまっているときは、意識の外に追い出していたものが、興味の中心になってくる。
そして、志望校をぼんやりと考え始め、テストでもっといい点数を取りたくなってきて、勉強すること、成績をあげることが、「したいこと」に加わってくる。
人間の感化される力はかなり強いので、これを使わない手はない。

勉強が「しなければならないこと」なんだと心の底から自覚できるようになるわけではないが、少なくとも「したいこと」にはなっていく。そのうえで、テストなどで小さな成功体験を積んでいけば、「したい」度合いが高まっていく。
要するに、自分を何の中毒にするか、その選択にすぎないのだけれど、将来、ふりかえったときに初めて、その選択が正しかったと喜べるはずである。そうなって、ようやく、勉強は「しなければならないこと」だったんだと、納得できるようになる。振り返らないと認識できないものだと私は思う。


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授業の準備はしても、それは何年もやってきた同じような内容の繰り返しにすぎず、そんなものは勉強とは呼べない。ただの作業だ。高校の教員も同様の人が多い。
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